蜘蛛の糸

双極症を患っている者のブログです。日々の気分や体調を記録しております。

2023年を振り返る。

精神疾患を患って今日で1年

 2022年12月13日。心療内科に駆け込んで1週間後、「うつ病」と診断された。当時は、バリバリ働いていて、夜の10時を過ぎることもしばしばあった。連日のように気分が沈んていることが多くて、特に体がだるかった。

 10月か11月に朝寝起きが悪くて、会社に行き来が失せたので、2日か3日会社を午前中だけ休んだ。休んだ後、上司と面談をして仕事量をセーブしてもらったり、定時で帰らせてもらったりした。が、体調が良くなることはなく、会社行くのが億劫になったり、会社について人混みを見た時に吐き気がしたり、仕事中に頭痛がしたりと体調が悪くなった。いよいよ体が限界になってきて、精神科・心療内科探しを始めた。

 が、初診受付をしていところがなく、なかなか見つからなかった。そうこうしている間に上司が自分の精神的状況を考慮して、12月に部署を移動させてくれた。新しい部署に変わっても体調が良くなることがなく、苦しい状況が続いた。そこに新しい職場の近くに心療内科を発見した。通いやすいかもと思って今の心療内科で初診を受け付けてもらった。

 心療内科に駆け込んだ時のことをよく覚えている。初診の時に主治医に対して、大学院時代のつらい思い出や過去に自殺を企画したことを話したら涙がぼろぼろ出てきたのを覚えている。病気によるうつ症状でないことを証明するために血液検査が行われた。翌週、血液検査に問題がないことが証明され、「うつ病」という診断が下った。

 そしてうつ病の治療が始まった。主治医に「仕事は休んだ方がいいですか?」と尋ねると、「働けるのであれば必要はない」といわれたので、働き続けた。ここらへんから記憶が曖昧になった。家族や当時付き合っていた彼女には病気のことについては言ったのかは覚えていない。年末に彼女の家でクリスマスパーティをやったのは覚えているのだが、その後実家にどのように帰ったのが覚えていない。

 

1月

 年が明け、3日に実家から自宅へと帰った。うつ病と診断せれてから1ヶ月程立ったが、体のだるさ、焦り、緊張感がまだあり体力的にしんどいときが続いた。主治医から処方される薬がだんだんと多くなった。当時、自分の仕事の出来と同期の仕事の出来を比較して「やばい、このままでは置いてかれる」と気分的には焦りがあった。焦る気持ちは全然収まらず、なんとか追いつこう必死になっていた。自分のキャパシティを超える仕事量であったため、夜の22時くらいまで残業する日が続いた。

 

2月

  上旬。 会社の人たちで旅行することがあった。旅行自体は楽しかった。旅行先のホテルで上司に「今、うつ病を患っていて、来週から休職します」と言った。当時の上司は驚いいて(驚くのも無理はない)、詳しく話を聞かせてほしいと言われた。ことの顛末を30分から1時間くらい話した。他の会社の人からは「そんなに無理しなくていいよ。この会社がダメなら別の会社で仕事をすればいいよ。」と励まし(?)の言葉をもらった。話をしている最中、終始慟哭しながら話を続けた。横にいた同期の顔は硬直していて、なんか申し訳ない気持ちになった。その後、旅行は何事もなく無事終わった。

 中旬。旅行が終わり、休職期間に入った。休職する直前の診察時に「休職期間中は何をすればいいですか?」と尋ねた。主治医は「何もしない方がいい」と助言した。まさにこれは休職時はもっとも大事なことであった。何もしない方がいいという意味は後に2つあることに気が付く。1つは症状の改善うつ病においてはとりあえず休むことが大事である。まぁ何かをしようとしても意欲がないのでずっと横になっているのであるが、急性期(端的にいうと一番辛い時期)においてこれは正しい。薬の服用と同時に身体と心を休めるために何もしないことで症状改善を図る。もう1つは社会的逸脱の防止。後に自分がやらかすのだが、休職しているのにも関わらず旅行を行ったり、派手に飲み遊んだりと周囲の心証を損なう(悪い印象を持たれる)ことの防止のために、あえて何もしないということである。

 下旬。うつ病と診断された頃から彼女の写真を見ると吐き気を覚えるようになった。なぜかはわからない。なぜか吐き気がするよになった。そこである考えが浮かぶ。「精神的な病気を患っている状況だと彼女に申し訳ない。結婚も視野に入れていたが、こんな自分じゃ受け入れてもらえないだろう。」勝手に思った。そこで自分の兄が同じような状況を以前経験していたので相談した。相談の結果、別れた方がお互いのためと思い、別れることを決断した。一番決定的だったのが、学生時代の彼女の行動である。学生時代、研究が思うように行かずに頭を悩まして自殺を図るまで窮地に追い込まれた。その時に彼女は自分の支えにはなってくれなかった。これが別れる最大の理由だった。一般的に言われるようにうつ病の時に大きな決断はしない方が良いということは薄ら頭の片隅にあったのだが、やってしまった。これが終わりの始まり

 

3月

 12日。今でも忘れない、とんでもない一日だった。

 夜中、突然息ができなくなった。起きている時は息はできているのだが、眠っていると呼吸ができなくなる。薬の影響だと思われるが、何か深刻な病気だと思い込んで救急車を呼んだ。4時くらいに救急車が到着。救急車に乗るのは人生で2回目。病院に着く頃には呼吸はできる状態になった。担当医曰く、特に異変はなく、もしかしたら睡眠時無呼吸症候群である可能性があるとのことだった。一度、耳鼻咽喉科を受診した方が良いと助言を受けた。夜中の一件で疲れて始発の電車で家に帰った。(後の検査で薬の副作用であることが判明する)

 午後。彼女から一本の電話が入るこれが人生を変えた。内容は彼女を除いた別のインスタアカウント作っていたことがバレて、それを追及された。別のアカウントを作った理由としては、彼女と別れて新しい人生を歩もうとしたからだと思う。今を思えば何も別れる前にアカウントを整理しなくても良かったんじゃないかと思う。すると自分は突然テンパって、急に泣き始めた。「別れてくれ」と泣いて懇願したのはよく覚えている。当時12階の部屋に住んでいたのだが、掃き出し窓を開けて飛び降りようと自殺を図る。だが、彼女が「やめて」と制止した。その後キッチンにいき包丁を首に当て首を切ろうとしたが、またもや彼女に制止される。突然別れを切り出された彼女にとっては到底受け止めることができなかったことだと思う。まぁ普通にある日「突然別れよう」って言われたら理解できないと思う。散々ギャン泣きして、涙と鼻水をかんだティッシュが山のようになっていた。1時間か2時間くらい話した後、最後別れる時は会って別れたいとの彼女の要求をのんで電話を切った。暫くして、精神科救急センターに電話した。電話の指示で頓服(精神安定剤)を飲んで後日主治医に連絡することとなった。

 その後自分は何を思ったか、「彼女がストーカーになって家まで押しかけてきて最悪、殺されるんじゃないか」という被害妄想して「一刻も早くこの部屋から逃げなきゃ」と思っていた。それと彼女との記憶を忘れるべく彼女に関するもの全て捨てた。スーツやコート、冷蔵庫など日常生活に必要なものまで捨てた。物を捨てたことで日常生活に多大な影響が出たのでめちゃくちゃ後悔している。恐らくこの時点で躁転していたのだと思う。

 

4月

 3月の出来事をきっかけに急いで引越をした。もともと社員寮に住んでいたのだが、一軒家に引っ越し。なぜ一軒家だったのかはよく覚えていないが、和室があって職場に近い物件ていく感じに探したのだと思う。当時は和、日本の伝統的なものに心惹かれていてた。自分の傾向としては病んでいる時ほど日本の伝統的なものに惹かれやすい傾向は前からあった。それが和室を選んだ理由。それで引越しをしたはいいものの、冷蔵庫とか電子レンジとかを捨ててしまったので、改めて買うことになった。加えて洗濯機もなかったので買った。症状的には躁の状態が続いていたのだと思う。この時期も心療内科には週に1回の頻度で通院していた。うつ病の薬もMAXの量で投与されていたものの、症状があまり改善しないでいた。

 下旬。ついに"あの"薬が投与される。薬品名は避けるが、簡単にいうとうつ病の薬の効果をあげる薬。そして躁状態の悪夢が始まる。

 

5月

  4月末に投与された薬により躁転する。常に気持ちが落ち着かず、引越したても相まって「あれも買わなきゃ、これも買わなきゃ」と何かに駆り立てられるように、ありとあらゆるものを買った。ここから痛い出費が続いく。引越した物件は2DKでめちゃくちゃ広く、色々な家具が置けるので、ダイニングテーブルやTVボード、PCデスクなどの家具を急いで揃えた。他にもトースターや電気ケトル、分別ゴミ箱などの生活用品やPCモニタやMac mini、スピーカー等パソコン関連のものも買い集めた。しまいには床にタイルカーペットを敷き詰めたりするなど明らかな過活動の症状が見られた。躁状態の時、自分の場合はハッピーな気分というよりかは究極の焦りみたいな感じだった。そしてクレジットカードの限度額いっぱいまで使い、1週間で合計約100万円も浪費してしまった。このエピソードを主治医に話したところ、うつ病の症状ではなく躁うつ病双極性障害の症状であることが認められた。この時期を境にうつ病双極性障害へと治療方針が変わっていった。

 

6月

 今までの躁状態がが徐々に落ち着き始めていた。ここ時期からクレジットカードの返済地獄が始まる。人間はお金がないっていうだけで結構メンタルに来るんだなぁと初めて実感した。この頃が精神的に一番しんどい時期だった。躁状態が落ち着き始めたと同時に今度はうつ状態になった。常に死にたいという希死念慮に取り憑かれていた。一日中暗い気持ちになっていてたまーに過去の自殺企画を振り返り、「あの時死ねればよかったかなぁ」と思っていた。そして後悔にに苛まれた。「あの時物を捨てなければ…引越しをしていなければ…。」とありとあらゆることを後悔した。後悔から逃げ出したい一心で死にたいと思ったのであろう。

 下旬。同期から旅行を誘われたので乗っかってしまった。旅行自体は楽しかったのだが、ホテルでよく眠ることができず、自宅に帰ったら吐き気を催すなどの明らかに身体的負担がかかっていたのだ思う。この旅行を最後に約2ヶ月間誰とも会うことは無かった

 

7月

 6月に引き続きまだしんどい状態が続き、たまに夜泣くようになっていた。ブログを見ると下痢や食欲不振に悩まされていたことがわかった。また、夜に眠れないことに加えて朝方に起きてしまい睡眠時間が減っていることもあった。週間的にも気分の波があった時期でもある。やはり6月から続く後悔の念によって気持ちがひどく落ち込むことも多かった。この時期に特に特徴的だったのは気持ちが攻撃的になっていたことである。「この病気になったのは誰のせいか」と犯人探しを始めたり、怒りのあまりPCとモニターをハンマーで破壊したりなどの攻撃性を見せた。あまりの攻撃的な行動に自分でも恐ろしくなった。一旦冷静になって考えて、完全に身勝手な行動であったことを反省した。日が経つにつれて攻撃性は落ち着いていった。

 

8月

 上旬。死にたいという気持ちもなくなり、症状が落ち着いてきた時期。約2ヶ月間誰とも会わずに、外出も近所のスーパーに行くだけの生活をしていてたため、体力がぐんと落ちた。リハビリがてらに散歩を始めるもスーパーまでの距離以上は歩くことができないことが判明し、体力の低下を実感した。

 中旬。お盆休みは実家に帰省することもなく、自宅で過ごした。このころから徐々に散歩する頻度多くして多分、近所の公園(ちょっと距離があるところ)までは歩いていけるようになっていったと思う。急性期(症状の変化が激しい時期)から回復期(急性期を乗り越えた時期)に移行しただと考えている。

 8月からはそれまで週に1回だった通院ペースが週2回に変わった。これも主治医が症状の改善がみられたと判断したためだろう。この時から少し希望が持て始めるようなったと思う。 

 

9月

 8月から精神的にも身体的にも回復して、気分の落ち込みも少なく、1日10,000歩歩くことができるまでに体力が回復してきた。会社の同期がご飯に誘ってくれ、約2ヶ月ぶりに人と会話した。久しぶりの社会的な接点を持ったことに喜んだ。この頃から考え方が前向きになってきた。以前は何であんなことをしたんだろうと後悔したり、今後どうなってしまうんだろうと不安になったりしていた。しかし、日々の小さな幸せを感じることができるようになってから考えがポジティブになったのだと思う。ブログにも考えの変化が垣間見える。

 夏の暑い時期を過ぎたためこの頃は結構な頻度で散歩に出かけていた。近くの公園に散歩に行き生い茂る木々や池に注ぐ水の音など自然に触れ合うことでストレスが緩和されていった。

 

10月

 上旬。自転車をつかって外出していたのだが、交差点を渡ろうとした時に、車と衝突しそうになり怖くなった。調剤情報には、自動車の運転を控えるように書いてあるため自転車も運転を控えたほうがいいのかと思った。薬の副作用とはいえ自動車や自転車を運転できないのはハンデ。

 下旬。同期が旅行に誘ってきたので自分も乗っかった。これがまずかった。旅行自体は身体的にも精神的にも負担にならずに楽しめたのでよかった。ただ、旅行に行っていることが会社にバレて社内から反感を買う出来事となってしまった。当時、双極性障害に対する気分安定剤だけで治療しており、躁状態を抑える薬は服用してなかった。恐らくこの行動は少し躁状態を呈していた結果のであろうと思われる。

 そんななか、元彼女との連絡が取れた(本当は主治医から連絡を取ることは禁じられていたのだが)。9月くらいからただ一言謝りたくて連絡を取ろうと試みたのだが、全然つかなくて気分的にもモヤモヤしていた。すると旅行中に元彼女から連絡が来た。正直驚いた。そして最後にきちんと謝ることができて心のモヤモヤが晴れてスッキリした。さようなら。

 そんなこんなで、主治医から復職できるくらい回復していると言われた。職場復帰の兆しが見えてたのでとても喜ばしかった。精神疾患うつ病双極性障害)と診断されてから約1年。普通に社会で生活できるか分からないが、ようやく長い闘病生活から抜け出せそうだと思った。

 

11月

 上旬。学生時代の友人と1年半ぶりくらいに再会。焼肉を喰いながら、病気のことから今までの事の顛末を惜しげも無く披露した。友人もいろいろ受け入れてくれたようでよかった。この頃より気分が安定した日々が続いた。

 

12月

 上旬。いつもの通院で復職に向けての具体的な方針が決まった。予想通り年内の復帰はできないのだが、年が明けた1月から復職に向けてのリハビリ出勤が行われる予定。リハビリ出勤については各企業で制度が異なると思われるが、主治医から復職可能の診断書を企業側に提出することから始まる。次に産業医との面談が控えており、面談をクリアするとはれてリハビリ出勤が開始される。この産業医との面談が圧迫面談であったらどうしようと少し不安になっている。来年の1月から1ヶ月間リハビリ出勤をして、2月から業務再開すると予想している。リハビリ出勤の期間が長引くことはないかもしれないが、そうすると休職から約1年での復帰となる。復職までもう時間が限られてきたから、できることはやっておこうと思っている。 

 中旬。飲み会で失敗した。お酒は飲んでいないのだが、飲み会後に行ったシーシャバーでやらかした。息を吸って吐くかの如く、断続的にシーシャを吸った。1時間後くらいにはシーシャを吸い過ぎて気持ち悪くなっていた。結局、家に戻ってからトイレで吐いた。

 ぼっち・ざ・ろっくに影響されるライブハウスに行ったことがなかったので、ちょうど興味があったバンドのライブが近所のライブハウスで開催されることをききつけ、即チケットを購入。本番当日、行列ができていることは以前から知ったのだが、ライブハウスの内部に入るとびっくり。すし詰状態、300人以上はいた。ライブが始まると会場のボルテージが上がってきた。ライブハウスの雰囲気とファンのノリに圧倒された。今までネットの中でしかみていなかった人が目の前にいるリアル感を味わえてとてもよかった。最初の曲以外全部知らない曲だったけど楽しめた。ライブ、悪くない。

 下旬。実家に帰る。

 さて、診断が下されてから1年となった。症状は安定しているものの、たまに出過ぎたまねをしてしまう。これが症状によるものなのか、単なる考え方なのかはわからない。が、来年に働いている姿がぼんやりと浮かんでいる。